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評価:
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ワーナー・ホーム・ビデオ
¥ 1,212
(2002-12-20)
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去年の震災以降密かな話題になっている映画である。
黒澤明監督作品としては晩年期のものであり、黒澤監督が特殊効果に初めてハイビジョン合成を導入した作品である。
特殊効果にはジョージ・ルーカスの視覚効果特撮工房や、デンフィルム・エフェクトの中野稔氏も参加協力している。
日米合作の映画で配給会社はワーナーブラザーズだ。
これは日本での出資者が見つからなかったため、スティーブン・スピルバーグを経由してワーナーブラザーズより配給することで製作を実現したからである。
日本語版のクレジットにスピルバーグの名が出ているのはそのためである。
このことについては後述する。
肝心の内容はというと、脚本も黒澤で、夏目漱石の「夢十夜」をフューチャーした様なオムニバス形式で、主人公の視た夢を幼少期から壮年期まで順に語られていく。
カラー移行後の黒澤作品なので、視覚的・聴覚的な演出にウェイトが置かれているきらいがあるが、6章目からこの作品のテーマが露骨に描かれることになる。
6章目「赤富士」は原発事故の夢だ。
このエピソードでは富士山が噴火しているが、災害と原発事故が一度に起こるという状況は、日本人にとって記憶に新しい光景だ。
作中では、放射性物質に着色する技術があり、鮮やかな色に染まった空気から人々が逃げ惑う。
主人公、幼い子供たち、その母親、中年の男はとうとう絶壁に追い詰められ、中年の男はそこから身を投げようとする。
主人公がそれを止めると、男は流出している放射性物質と、被曝した場合の症状について淡々と語る。
それを聞く母親は子供を色の付いた大気から避ける様に庇い、原発を推進した電力会社への憎悪を叫ぶ。
それでも容赦なく広まっていく汚染空気を、あがく様に上着で振り払う主人公達に背を向け、男は自殺した。
男は発電所の職員だった。
続く第7章は汚染された世界の夢だ。
そこには異常な花が咲き乱れ、奇形の動物達と鬼の様な角の生えた人間達が徘徊している。
鬼の様な姿となった人間達が互いを脅かす姿は悪夢の様な光景だが、これはまだ我々が目にしていない光景だろうか?
これまでの生活と価値観を奪われ、人々が疑心暗鬼になる様子は、何も夢想のものではない。
災害時にATMが荒らされ、他の保護者の偏見と差別を理由に被災児童の受け入れを拒否をする保育園などが今存在するのだ。
安全な場所にいるにも関わらず、買占めを行い、自治体は被災地の瓦礫の受け入れ拒否する。
そしてこの記事を書いている筆者も、被災地の野菜や魚介類、卵を避けて購入しているのが現実だ。
「夢」は20年以上前の映画だ。
しかし、今の日本を予見している様だということで話題になっている。
参考リンク
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映画「夢」 黒澤明は予言者か、検証
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シネマトゥデイ
今の日本を当時から危惧することができたのだとしたら、人災だ、との声も出ているあの原発事故は何だったのだろうか。
考察の素材として8章目のエピソードも紹介しておこう。
最終章であるこのエピソードは自然と共存した村の夢である。
水車のある美しいその村では人々は大抵、寿命を迎えて死ぬという。
そんな村での葬式はそれまで生きた労をねぎらい、讃える意味で、まるで何かの祭りの様に賑やかで華やかで盛大である。
これこそが黒澤明が夢視る理想だと言う様に幸福そうに描かれている。
それでは人と近代科学との共存はむりなのだろうか。
それでも人は常に新しい物を求め、人の手だけでは成しえない快適さを求める。
おそらく、そういう風に出来ているのだ。
6章目の母親の叫びが脳裏によみがえる。
「原発は、安全だ! 危険なのは操作のミスで、原発そのものに危険はない。絶対ミスを犯さないから問題はない、とぬかしたヤツラは、許せない!」
あまりにも思想を露骨に描きすぎた本作は公開当時、酷評の嵐だったという。
実際にこの作品の映像美にエンターテイメント性を期待した人間がいたとしたら、大きな裏切りとなる作品ではある。
しかし、あくまでも物語の展開の一要素に過ぎないような主張では、必ずしも意図する解釈を得られないのも事実ではある。
原発批判の主張が目的で製作したのだとしたら、この作品はあそこまで嫌悪されただけに、しっかり意図する役目は果たしたという事になる。
配給がアメリカのため、フィルム上演の機会にも恵まれないこの映画の生い立ちと境遇が全てを物語る。
黒澤は当時のとあるインタビューにこう答えている。
「作った場合にさ、人間では制御できない性質を持ってるわけでしょ? それを作るっていうのが、そもそも僕は間違いだと思う」
確かに原発はレベル7の事故が起きる前から常に問題視されていた。
それでも我々は原発で作った電気を使っていた。
原発が作った電気を作って活動し、経済を潤していた。
しかし今、首都圏に送る電気のための原発の事故で、不自由な生活を強いられている人たちが確かに存在している。